京のまちの荒廃
 

明治20年代の高辻西洞院の西洞院川の写真 (格致百年史より)

 

 平安京は延暦13年(794年)桓武天皇により、長岡京より京都へ遷都されました。今日までの間に、何度も大火に見舞われておりますが、その中でも、応仁元年(1467年)正月18日に起こった応仁の乱は、畠山政長と畠山義就との確就により、上御霊神社付近での合戦を発端に、東軍には、細川勝元が、西軍には、山名宗全が布陣し、文明9年 (1477年)に終息するまで、あしかけ11年の長きにわたり、戦いが続けられ、京都の街を荒廃させました。近年では、元治元年(1864年)7月19日 どんどん焼け と言われています 禁門の変(蛤御門の変で、長州藩が幕府軍・薩摩藩との衝突)に端を発し、火災が起き、翌日も燃え続け、21日5時に鎮火、京都市街の大半を焼失しています。焼失家屋は、約2万7400戸でした。先の第二次世界大戦では、昭和17年6月の、ミッドウェー海戦の敗北を転機に、戦局はしだいに不利となり、昭和19年6月、サイパン島の陥落と共に、昭和20年には、アメリカ軍のB29爆撃機の本土空襲が日常化するようになり、昭和20年1月16日午後11時に、東山区馬町一帯が爆撃され、死者34名を出し、防空対策の必要性がいっそう痛感されました。そこで建物強制疎開の第一次概要が、昭和19年5月25日に都市計画局課長―監理課長名で起案されています。
重要施設周辺の疎開空地として
  島津製作所 三条工場周辺  1万500坪
  京都瓦斯  第一工場     8800坪
  日本電池  九条工場     4300坪
  寺内製作所          1600坪
          合計   2万5千200坪 疎開戸数 537戸

 第一次強制疎開の中に、本能学区も入っておりました。第一次防空空地 (疎開空地)番号210 中京区  1360坪 32戸 堀川三条下ると書かれています。

 現在の堀川通り、三条〜四条間、密集して家が建っておりました。第一次強制疎開〜第四次強制疎開で、橋浦町西部、壺屋町西部、四坊堀川町西部、錦堀川町西部の町並みが全部消えました。
本能学区に於いては、塩屋町の方から、強制疎開前の堀川三条下るには、お風呂屋さんがありましたよと言われ、京都府立総合資料館で調査しましたら、確かに橋浦町に湯房として書いてあり、お隣りはそのお宅の住家として記載されており、一軒一軒、詳しく記録が残っていました。堀川通の三条〜四条間の町内全戸数の(番地にて記載されています)図、入手しましたので、越後突抜町の方に見ていただきましたら、ここにも、ここにも、友達がいましたと言われました。

隣接する乾学区に於いても、三条堀川西入る、橋西町(旧町名 西橋詰町)では、約半数の家が壊されました。蛸薬師通堀川西より猪熊東入るの、金屋町は、昭和20年3月18日に20数戸が、5日間のあいだに強制立ち退きを命じられ、それまで40数戸あった町内が、たちどころに、半数となりました。宮本町は、岩上通蛸薬師下るより錦小路までで、強制疎開で、東部堀川側は、5軒が壊されました。錦小路堀川西入るより、猪熊東入るまでの、吉野町は、強制疎開により、27戸が15戸になりましたと、乾百年史に書かれています。

南隣りの格致学区に於いても、昭和20年4月に、四条〜松原間の堀川通りの、東側も西側も、一斉に強制疎開が実施され、約150戸余りの家が見るも無残な、あわれな姿に、家々の主柱は、ノコギリで、ゴシゴシ、太い綱は柱をくくり、警防団の人々の掛け声で引き倒されて行きました。長く住み慣れた我が家は見るも無残に土煙りをたてて、倒されました。想い出すも嫌な出来事が毎日次々と行われました。疎開のあとは、戦時食料不足を補う為、家庭菜園と防空壕として、各町内に割り当てられ、区内の人々が思い思いの作物を植えたのです。
そして、昭和20年8月15日 終戦の日に、あなたは、どこで何をしていましたかの欄があり、何人もの方が、@蛸薬師堀川東入る A油小路蛸薬師 B堀川女学校付近
C本能校及び堀川女学校周辺 D本能学区内 E蛸薬師堀川付近と、いろいろな表現で、本能学区内の家屋強制疎開に従事されていましたと、格致百年史で証言されています。

まさに現在の堀川通、御池通、五条通りは、防空空地としての戦時の遺産です。

追談 9月28日の第4回本能ものしり講座で、池須町の名前の由来と西洞院川との関係について、質問がありましたので、公同沿革史で調べました。
六角魚市として、京都市民の食膳に上る、海産物が、瀬戸内海沿岸、地方から先ず、京都の外港として栄えた、淀へ入り、その品が流通の拠点として、六角町に鮮魚市が設けられ、近江の粟津供御人が、鮮魚の販売する独占権を得て、粟津座とも言われていたそうです。
さらに鳥の独占権も得て、禁裏(御所)だけでなく、市中の魚鳥専売権を持っていたようです。この六角の魚商人は、平安末期より存在し、鎌倉末期には、内蔵寮(現在では、宮内庁長官官房)の供御人として現れ、室町時代末期には、魚商の密集地帯を形成したそうです。六角町とは、六角西洞院池須町のことで、西洞院川の清水が役割を果たし、六角供御人として、六角町に居住して、生魚販売の独占権を持っていたと書いてあります。
また格致百年史には、高辻西洞院で、七代目の材木商を営んでおられる方が、ご自分のお宅の向かいから撮られた写真を掲載されており、西洞院川が写っております。
京の五条の橋の上 牛若・弁慶の立ち回りも、実は西洞院松原での、出来事であると言われています。五条天神宮(西洞院松原下る 旧名 五条天神社)の木立にひそんでいた、弁慶が飛び出して、牛若丸と闘ったのが、西洞院川の橋の上だったと言われています。
現在の松原通りは、昔は五条通りでした。

 

防空壕の完成 (中京区制60周年記念誌「京・なかぎょう」より)

 
資料入手は、京都府立総合資料館、京都市歴史資料館、中京区役所、公同沿革史(秋山國三著 昭和18年11月3日発行 上巻)、格致百年史、乾百年史、本能、格致、乾学区の皆様からの証言。

   平成19年11月3日

                      山田町     村田 茂雄